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制作国 | イギリス |
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作品カテゴリー | 映画 |
公開日 | 2024年12月6日 |
作品ジャンル | ドキュメンタリー |
公式サイト | 公式サイトへ移動する |
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「NO ハンブルク NO ビートルズ」あらすじ
1960年。若者に何か新しいものを提供したいと思っていたドイツ・ハンブルクのクラブオーナーたちは、水夫からイギリスではアメリカン・スタイルのロックンロールが演奏されていると聞き、アメリカより安く来られるイギリスからアーティストを招く。8月15日、ビートルズは、列車代や船代も出せず、ミニバスでハンブルクを初訪問。クラブで演奏するかと思いきや、ストリップクラブ「インドラ」で演奏することに。隣の映画館でベッドも照明も暖房もないところにユニオンジャックの旗を被って寝て過ごす。全員10代で、最年少のジョージ・ハリスンはわずか17歳で、世界最大の赤線地区の真ん中で演奏し、寝泊まりすることになる。ステージでは、人を引き付けるコツを徐々に学び、スタイルが確立。まさに、ハンブルクは学び場となった。「インドラ」で最初は無名だったが、1〜2週間後には混み合い、6週間後には近所からの苦情で、ライブ演奏が禁止に。やっと「カイザーケラー」で演奏できることになる。その後、トニー・シェリダン付きのバンドとして「トップテン」で演奏したいと申し出ると、「カイザーケラー」のマネージャーのコシュミーダーに「そうしたらドイツでは二度と働けなくしてやる」と脅される。メンバーは「あんたもね」と返すが、「トップテン」で演奏した初日にコシュミーダーは実際に警察にタレこみ、ポールとピートは起訴され、イギリスに強制送還される。1962年4月、ハンブルクの「スター・クラブ」のオープニングに呼ばれたビートルズだが、初めて飛行機に乗ってハンブルクに行くと、空港で待っていたのは、スチュアート・サトクリフの恋人・アストリッドのみだった。元メンバーの死を知るメンバーたち。8月には、ドラマーのピート・ベストが外され、リンゴ・スターに変わる。11月と12月にハンブルクを再訪し、大晦日を最後に「スター・クラブ」での公演を終えると、11日後に発売された「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで大ヒット。当時を知る者は口を揃えて言う。「ビートルズを作ったのはリヴァプールではない」と。
「NO ハンブルク NO ビートルズ」キャスト・スタッフ
【出演】
ピート・ベスト アラン・ウィリアムズ
【スタッフ】
監督[ロジャー・アプルトン]
「NO ハンブルク NO ビートルズ」概要
「NO ハンブルク NO ビートルズ」は、ザ・ビートルズの初期活動に焦点を当てたドキュメンタリー作品で、特にドイツ・ハンブルク時代にスポットを当てています。1960年から1966年の間に、ビートルズがどのように成長し、音楽的に転換を迎えたのかを、アーカイブ映像や関係者の証言を通じて描いています。出演者には、初代ドラマーのピート・ベストやレコードプロデューサーのジョージ・マーティン、サトクリフの恋人アストリッド・キルヒヘア、ミュージシャンのリトル・リチャードなどが登場。生前のジョン・レノンやポール・マッカートニーの証言により、ビートルズがリヴァプールで生まれ、ハンブルクで育ったという言葉の真意が明かされます。さらに、1963年の「プリーズ・プリーズ・ミー」のヒットを経て、1966年の6回目の訪問までを、元メンバーと関係者の証言やアーカイブ映像と音声、アニメーションなどを使って、まるで昨日のことかのように生き生きと蘇らせる。監督は「ジョン・レノン 音楽で世界を変えた男の真実」のロジャー・アプルトンが務めた。
「NO ハンブルク NO ビートルズ」の感想・レビュー評価
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2024.12.10視聴済み
1960年、ビートルズが無名の存在から世界的スターへと成長する過程を追ったドキュメンタリー。ハンブルクでの過酷な初期時代が描かれ、メンバーがどのようにして音楽的なスタイルを確立していったかがリアルに感じられます。ビートルズを育んだ場所がイギリスではなくドイツであるという視点が新鮮で、彼らの成功を支えた周囲の人物や出来事が見事に映し出されています。世界的人気のビートルズでも下積み時代があったんですね〜。
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