今年の2月に「木村文哉」から「木村文(きむらぶん)」への改名を発表した、俳優の木村文さんにインタビュー!
2022年の朝ドラ『連続テレビ小説 ちむどんどん』では川口春奈さんの後輩教員知念陽平役を務め、同年ハリウッドとWOWWOWの共同制作ドラマ『TOKYO VICE』ではヤクザになりきれない青年・耕司役に大抜擢された、これからが楽しみな俳優さんです。
由余曲折を経て、新しく歩み始めた木村さんの俳優人生について、余すことなくたっぷり語っていただきました!
学生をしながら東京へ遠征 俳優を志して上京した下積み時代
ー俳優を目指した経緯、芸能界デビューのきっかけから教えていただけますか。
木村文(以下、木村):僕が小学生の頃、地元の三重県で土曜の昼12時からテレビで吉本新喜劇をやっていたんですよ。
辻本茂雄さんが演じられている、“茂造じいさん”っていう役がすごく好きで、「将来は、茂造じいさんみたいになりたい!」って言っていたくらい。
子どもの頃は生活の中で触れられるエンタメとして、吉本新喜劇が一番身近な存在でした。
中学生くらいのときに漠然と“東京に出て、何者かになりたい”という気持ちが芽生えて、雑誌を読んでいたら初めて“オーディション”っていう言葉を見つけたんです。
性格的にも目立つこととか、色んな人に喜んでもらうことが好きだったので、オーディションを一回受けてみようかなって思って、オーディションを受けて、演技のレッスンに通うようになったのがきっかけです。
ーそのオーディションっていうのは、俳優のオーディションですか?
木村:モデルかなにかのオーディションだったんですけど、何をやっていいかもわからなかったので、とりあえず見つけたオーディションに飛びついたなみたいな感じですね(笑)。
ー高校生ということは、バイトかなにかをしながら三重県から東京に遠征していたのですか?
木村:そうですね。
高校3年生の時に、週4日くらいバイトして、毎週金曜日の夜に三重から夜行バスに乗って、土曜日の朝に東京に着いて、1日レッスンを受けて、またその日の夜に夜行バスに乗って日曜日に三重に帰る、みたいな生活を1年続けて…。
なんかよくわからないですけど、ガッツだけはありましたね(笑)。
ー選択に迷いや不安はなかったのですか。
木村:子どもの頃からサッカーと空手をやっていたんですけど、空手の黒帯をとって空手の先生から「お前は世界を目指せ」って言われたときに、自分では空手を極めたいとは思わなくて。
それに対して、東京で何個か色んなレッスンを受けたときに、一生食べていくための仕事として役者をやっていきたいなって、強く思えたんですよね。
サッカーや空手と、役者を比べたときに、自分が注げる熱量が違うなと、高校三年生のときに気づいたんです。
ー上京して役者になることについては、親御さんから反対されなかったのですか?
木村:父親に「役者でちゃんと食べていくんだな?」って言われて、「そうです」って答えたら「行け」って言われましたね(笑)。
高校生のときはあまり自分では気づいていなかったですけど、今思えば父親に認められたいみたいな気持ちも結構強かったと思うし、父親よりいい男になりたいと思っていたんだと思います。
今でも両親が僕の舞台挨拶のために、わざわざ三重から東京まで車で来てくれたりするんですよ。
今はまだそんなに親孝行はできていないですけど、僕が活躍していくことで自慢の息子になれるように、頑張っていきたいなと思っています。
ー実際に芸能事務所に所属されたあとはどのように?
木村:色んな人と出会い、事務所も何回か変わっているのですが、最初に入った事務所では舞台の仕事を何本かやって、もっとドラマとか映画にも出たいって思うようになりました。
でもそううまくはいかず、オーディションは何百本も落ちましたし、“なんでこんなに決まんないんだろう”と考え続けて泣きながらお酒を飲むこともしばしば…。
それでも役者がやりたくて、負けたくなくて現場に行っていましたね。
どうすればオーデションに受かるんだろうかと悩んでいたときに、ある先輩に出会ったんです。それが海老沢七海(『冗談じゃないよ』(2022)の主演)です。
海老沢君の姿を見て、どのくらいの準備をして、どのくらいの覚悟で、どのくらいの気持ちでオーディションに臨んで、ここまでやらないとオーディションは決まらないんだなっていうことを知ったんです。
僕に対しても「お前、こんなもんじゃないから」っていう熱い言葉をかけてくれて、それからオーディションに受かるようになっていったんです。
日米共同制作ドラマ『TOKYO VICE』に出演し、瞬く間に海外作品の虜に
ー木村さんは色々な作品にご出演されていますが、転機となった作品はありますか。
木村:色々あって迷いますが、『TOKYO VICE』(2022)ですね。
“いつかハリウッドの作品に出たい”みたいな遠い未来の夢は持っていたんですけど『TOKYO VICE』は急にきたオーディション、しかも超豪華なキャストさんで。
なんだか夢見心地というか、海外作品の作り方をすごく学んで、本当に楽しかったです。
海外に出なくても日本にいながら、海外の作品に携われるっていうことができて、それが自分のやりたいことなんだなって気づくことができた作品です。
ー海外の作品だと、結構日本の撮影現場と違うんじゃないでしょうか。
木村:『TOKYO VICE』の現場では、同じシーンを3パターンくらい別の芝居で撮るんです。
現場でこの芝居いいなと思っても、編集で見たときに芝居のニュアンスが違ったり、現場だとよかったけど編集時にあれ?ってなるのを、パターンを変えた芝居があれば編集時にいい意味でもっと悩めるんです。
一番良いものを編集で繋ぐっていうやり方に感銘を受けました。
ー3パターンも撮るとなると、役者さん側も大変ではないのですか。
木村:もう純粋に“より良いものを作っている”っていう感覚があるので、それで時間が伸びようが、僕は全然苦じゃなかったです。
役者側が何かを提案したとしても、Hikari監督、ジョセフ監督、アラン監督は否定せずに「いいね、じゃあ一回やってみて」っていうふうに言ってくれる、そういう素晴らしい現場でした。
この作品から今でもお世話になっている俳優の笠松将君から役の捉え方だったり、演出の部分だったり、色んなものを見て盗ませていただけたのも大きかったです。
わからないことも聞くと全部教えてくれて、なんて懐の深い人なんだ…と役の耕司の気持ちとリンクしていました。
そんな全員がプロフェッショナル、という中に入ってやれたことが自信になりましたし、やってきたことが報われた気持ちでした。
それまでの僕は、ずっといい作品には携わっているけど、ずっと自信のないまま進んでいるみたいなことを悩んでいたんですけど、“そんなのどうでもいいな、良いものを作るためにいろんなものを自分で生み出していくだけだな”とひしひしと感じる経験でした。
ー普段、役作りはどのようにやっているのですか。
木村:役の作り方って人それぞれ色々あると思うんですけど、僕は役に寄せないで、自分に寄せるタイプなんです。
台本を読んで、なんでこんなことを言うんだろうなっていうことを考えながら、これまでの自分の人生で感じた感情の中で、一番近いものを引っ張り出して演じます。
逆に、1,2カ月役になりきって生活している人ってすごい。心が持っていかれることもあるし、しんどくてできないですね。
僕は現場に立って、瞬発的に周りの雰囲気とアジャストしていくことを大切にしています。
「木村文」として歩み始めた俳優人生、まだまだこれから
ー思い出に残っている出来事についても教えてください。
木村:実は上京してきたときに、27歳までに何者にもなれなかったらこの仕事は辞めようと思っていたんです。
『ちむどんどん』(2022)、『自転車屋さんの高橋くん』(2022)、『TOKYO VICE』(2022)、など素晴らしい作品に沢山出させていただいているのに、自分の中ではまだ自信がなくて。
そんなときに僕の誕生日が8月1日なんですけど、27歳の誕生日を迎える前に、僕のことを取り上げてくださった媒体さんがいたことと、初めて有名な石井岳龍監督からオファーをもらって『almost people』(2023)に出演させていただいたことが、転機になりました。
石井監督に「何でオファーしてくれたんですか」って聞いたら『TOKYO VICE』を観ていてくれたみたいで、本当に嬉しかったです。
あと今受けているこのインタビュー、僕の“人生初インタビュー”なんです(笑)。
ーそうだったんですね!記念すべき1回目のインタビュー、ありがとうございます!今後海外作品に出たいとおっしゃっていたと思うのですが、もう予定があったり…?
木村:はい、今別の海外の作品も去年一個撮って、今も撮っている作品があるんです。
日本にいながら海外の作品にどう携わるか、ということを最近よく考えています。
『TOKYO VICE』みたいに日本にいながら、海外の作品のオーディションを受けられて、日本で撮る作品が多くなってきているので、そういった作品にまた関われるようにオーディションに対して常にアンテナを張って、狙っていきたいなと思っています…!
海外ってキャスティングが平等で、超有名俳優のレジェンドだとしても基本全部オーディションなので、チャンスがあるかなと思います。
ー今年の2月に「木村文哉」から「木村文」に改名されたとのことですが、どのような意図があったのですか。
木村:これまで木村文哉で仕事もプライベートも生きてきたので、その境界線がないなと思ったのと、あとはもう一つ理由があって、海外の作品に携わるようになってから知ったんですけど、「フミヤ」って海外の方には呼びづらい発音みたいで。
父親の友達のおじちゃんたちに昔から「ぶんちゃん」と呼ばれていたので、海外の方にも覚えてもらいやすいように「文(ぶん)」にしました。
最近現場で、ぶんさんって呼ばれるのがちょっと嬉しかったりします(笑)。
ーご自身のSNSに写真展の様子がアップされていましたが、これはどういったイベントだったのですか。
木村:たまたま昨年の年末に知り合いの役者の写真展を見に行った際に、色んな方がいらっしゃっていて、僕もいろんな人に出会える場を作りたいなと思って、今年の3月に「在り処(ari-ka)」という個展を企画してやらせもらいました。
知り合いのフォトグラファーの松井ちゃん(松井綾音さん)っていう子に僕の地元や、ルーツとなった場所の写真を沢山撮ってもらって。
松井ちゃんってその人の飾っていない部分、センシティブな部分を切り取るのが上手いんです。
ー来てくれた方の反応はいかがでしたか?
木村:写真を見て泣いてくれたり、感動してくれたり、本当にやってよかったなと思いましたね。
わざわざ遠いところから来てくださったファンの方もいて、実際にお会いできて嬉しかったですし、ファンの方同士の交流も見られたりしたので、とても幸せな気持ちになりました。
写真展の空間をみんながゆっくりくつろげる場所、学生時代にフードコートで溜まって楽しく話しているときのような感じにしたくて、おいしいコーヒーも用意していたので、喜んでいただけて嬉しかったです。
ー俳優としての大きな目標ってありますか。
木村:俳優部としての目標は主演の長編を撮ること、自分で企画、脚本をしている映画を実現することですね。
これはまだ明言できるものじゃないのでこれから頑張ります。
映画やドラマじゃないんですけど、今どうしても出たい番組が一個あって。
レインボーっていうお笑い芸人さんのジャンボたかおさんがやっている、【レインボージャンボたかおの食うチャンネル】(レインボー ジャンボたかおの食うチャンネル)っていうYouTubeチャンネルにものすごく出たいんです、僕、大ファンで…。
ジャンボさんのご実家でジャンボママのご飯をいただく企画が好きすぎてめちゃくちゃ見てます。
いつか呼んでもらえるように頑張りたいですね。こう口に出して言っていたら、ジャンボさんの耳にも届くかな(笑)。
ー届けられるように、頑張ります…!最後に、2024年はどんな年にしていきたいですか。
木村:去年はフリーになって、色々な準備の年でした。
ひょんなことからアメリカのプロデューサーと出会い、去年も何回かアメリカに行ったりして、自分の価値観も広がったし、「やっとここからだ」とエンジンがかかってきた感じがあります。
みんなが喜んでくれるような作品も撮っていますし、「マジか」ってなってもらえると思う自信があるので、皆さん心配せずに楽しみにしててほしいなと思います。
木村文(きむらぶん)プロフィール
1994年、三重県出身。高校を卒業した日に俳優を目指し上京。般若『あの頃じゃねえ』のMVにて映像デビュー。『今日から俺は!!』『全裸監督2』『クロサギ』『自転車屋さんの高橋くん』『アメガラス』など様々な映像作品に出演。2022年にNHK連続テレビ小説『ちむどんどん』にて教員役、『TOKYO VICE』にてヤクザになりきれない青年役で話題になる。なら国際映画祭2022にて出演作『ただいま』で俳優賞受賞。ほか、舞台やCMでも活躍。特技は空手黒帯弐段(全国大会優勝経験有)、サッカー、裁縫・服作り。趣味はギター、銭湯巡り。
X 木村文(Bun Kimura)@_bunkimura
Instagram https://www.instagram.com/_bunkimura_/
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